U―SPIRITSパンフレットから20周年記念インタビューを公開!!
プロレスラーに憧れた少年時代から、新日本プロレス学校、
UWFインターナショナル、そして現在までを振り返る!


1991年にUWFインターナショナルでデビュー以降、プロレスリングから総合格闘技への道を切り開いてきた一人である金原弘光。そしてデビュー20周年を迎え、原点である“U”を再び世に提供する金ちゃんに、20年間の歩みを振り返ってもらった。
聞き手 堀江ガンツ


ーーデビュー20周年おめでとうございます! いまの心境はいかがですか?
「いや、ホントにあっという間だったよね。中学の頃、初めて新日本プロレスを観に行ってさ、『プロレスっておもしろいな』って思ったことすら、そんなに昔には思えないもん。」
ーー中学時代から今日まであっという間ですか(笑)。
「もちろん、その間にはそれはそれはいろんなことがあったけどさ(笑)。」
ーーちなみに初めてプロレスを観たとき、どんなカードだったか覚えてますか?
「よく覚えてるよ。隣に住んでた凄くプロレスの好きなヤツと愛知県体育館に行ってね。たしかアントニオ猪木vsディック・マードック、藤波辰巳vsブルーザー・ブロディ、木村健吾vsジミー・スヌーカだったね。」
ーーそれは85年ぐらいのビッグマッチで、じつにありがちなカード編成ですね(笑)。
「その試合を観てから本格的にプロレスが好きになってね。新日本が愛知に来るたび毎回観に行くようになったんだよ。だから猪木さんが初めてアンドレ・ザ・ジャイアントからギブアップ勝ちした試合も生で観てるんだよ。」
ーーそれは貴重ですね!
「感動したよね。『歴史的の証人になった!』って(笑)。あとザ・コブラと高田さんがやった試合も観た。」
ーーあ、ザ・コブラのラストマッチですね(笑)。
「あのとき俺はコブラのポスターを買ったんだよなあ。」
ーーその試合を最後にジョージ高野に戻るとは思いもせず(笑)。
「そう(笑)。それでさあ、当時は金曜8時にテレビ放送されてたからさ、テレビに映りたいがために、入場するコブラを触りに行ったりしたからね。それで、あとで自分が映ってる姿をビデオで観て満足したりね(笑)。」
ーーじゃあ当時のビデオを見返すと金原さんが映ってる、と(笑)。
「そう。そのほかにも飛龍革命のときにやった藤波vsベイダーも観たし、愛知県体育館はビッグマッチが多かったから、いろんな試合を観たよね。それでファンとして最後に観に行ったのが新生UWFなんだよ。それでUWFは全選手入場式のあと、ファンサービスでキーホルダー投げをしててさ、俺は高田さんが投げたキーホルダーをキャッチしたんだよね。」
ーーおお、それは運命的ですね!
「ホントそうなんだよね。しかもメインイベントは前田vs高田戦でさ、高田さんが劇的な勝利を挙げるんだよ。
ーーUWFの総大将・前田日明が後輩に敗れたってことで、凄いインパクトでしたよね。
「この試合を観たあと、いよいよ本格的に『プロレスラーになりたい』って思ったんだよね。でも、当時は高校3年でさ、愛知学院大学の推薦ももらってたんだよね。しかも俺は当時身長が175cmでさ、憧れの新日本プロレスは180cm以上じゃないと入れないっていうのがあったじゃない。」
ーー当時は入門基準として、どこの団体も身長180cm以上ってなってましたよね。
「しかも、体重だって70kgかそこらしかなかったしね。あとは親父に反対されたから、まずその説得が必要だったんだよ。『そんなのダメだ。長男なんだから、ちゃんとやれ』って言われたのを俺も粘って毎日親父を説得してね。最後は『じゃあ、知らんぞ。金もわたさないから、自分で全部やれ』って言われたんだよ。」
ーー半分勘当みたいな感じで。
「だから、それから新聞配達を始めて東京に行く資金を作ってね。で、新日本プロレスの『レスラー募集』の連絡先に『プロレスラーになりたいです』って電話したんだけど、『いまはプロレス学校というのがあるから、まずはそこに入って年に1回の入門テストを受けてください』みたいな感じで言われたんだよね。」
ーーそれで新日本プロレス学校に入るわけですか。要は斡旋されたんですね(笑)。
「プロレス学校は山本小鉄さんが教えてくれるっていうことが、凄く励みになったんだよね。当時、身体の小さいプロレスラーは山田恵一さんにしても小杉俊二さんにしても、みんな小鉄さんに認められて入門したっていうのを雑誌とかで知ってたからさ。『俺も絶対に小鉄さんに認められるぞ』って思ってね。そこから上京してプロレス学校に入り、一人暮らしの生活が始まったんだよ」。
ーー貧乏修行時代が始まったわけですね(笑)。
「トイレ共同で4畳半のアパートだったからね。家賃も2万8000円だったかな。」
ーーそれは当時としてもかなりのオンボロ価格ですね(笑)。
「ホントにオンボロだよ。だから一人暮らしして、初めて親のありがたみがわかったもんね。風呂に毎日入れるありがたさとかさ。金がないからどこに行くにも電車じゃなくて自転車で移動してね。昼はバイトして、夜はプロレス学校で練習っていう生活だったよね。」
ーーそして、今回『プロレス学校同窓会マッチ』で集まってくれた天山選手、西村選手、サスケ選手、池田選手をはじめとした同志たちと一緒にプロレスラーを目指していたわけですね。
「でも、最初はプロレス学校生もたくさんいたんだけど、徐々に『俺はそろそろあきらめて実家に帰るよ』ってヤツが増えてきてさ、みんな挫折していくんだよね。」
ーーそれは、やっぱり狭き門でなかなかレスラーになれないからですか?
「それもあったんだけど、たとえ入門できたとしても地獄が待ってるってことが徐々にわかってくるんだよ(笑)。」
ー夢に向かってるんだか、地獄に向かってるんだか、わからなくなってくる(笑)。
「そう。先に新日本に合格した天山とか修ちゃん(西村修)なんかも、入門したら人格が変わってたもんね。」
ーー『新弟子なんか虫けら以下でいい』っていうような時代ですもんね。
「それで俺はさ、やっぱり身体が小さいから新日本のテストに二度落ちてね。プロレス学校で小鉄さんに“極めっこ”を習って、UWFにも興味が出てきた頃、ちょうどUWFが3派に分裂したんだよね。そのとき、感覚的に『UWFインターに行きたいな』って思ってさ。できたばかりの事務所に履歴書持っていって、入門テストを受けたら運よくうかってね。そのとき『UWFの会場で、高田さんからキーホルダーを取ったのが、ここにつながってるのかなあ』って思ったよね。」
ーー運命的なものを感じた、と。
「これはあとから垣原さんに聞いたんだけど。試験官の宮戸さんとかは『小さいヤツはいらない』って言ってたらしいんだけど、高田さんが『あいつは目がいいから取ろう』って言ってくれて、それで合格できたんだって。それ聞いて、ホントに『ありがとうございます!』って思ったよね。」
ーー師匠でもあり、見いだしてくれた恩人でもあるわけですね。そして、晴れて“娑婆じゃない世界”に入るわけですが。
「まず合宿所(寮)に入ってさ。そこには寮長が田村(潔司)さん、その下に垣原さん、長井(満也)さんがいて、新弟子が俺を含めて4人いてね。まずは挨拶から教育されるんだよ。朝は『おはようございます』、それ以外はすべて『お疲れさまです』と。人のそばを通るときは『前を失礼します』『後ろを失礼します』『横を失礼します』を必ず言えって。あとは先輩には口答えするな、返事の『はい』だけでいいみたいな。それを聞いて、『エライところにきちゃったな……』って(苦笑)。」
ーー否応なしにカースト制度に組み込まれるというか(笑)。
「とんでもなく抑圧され、殺伐とした雰囲気なんだよ。それで初日にさっそく一人辞めたからね。」
ーー初日から一人脱落!
「そのうち二人目が辞めて。すぐ新弟子は二人だけになっちゃったんだよ。それで道場ができるまではみんな公園で練習しててね。当時、垣原さんが『まだ道場がないうちはいいよ。まだ先輩も俺たちだけだから』って言ってたんだけど、その意味があとからよ~~~くわかることになるんだよ(苦笑)。」
ーーまだ“地獄の一丁目”だったことが(笑)。
「Uインター旗揚げの数日前に、ようやく新生UWFが使っていた道場を使わせてもらえることになって合同練習がスタートしたんだけど、そこで初めて先輩が勢揃いして、あれは緊張したなあ。道場の異常なまでの緊張感っていうのはずっと続いて、新弟子の頃は道場に行くたびに吐き気がしてたからね。」
ーー練習前から身体に異変が起こるほどの緊張感。
「そこからスクワットとか基礎練習をするんだけど、もう永遠に続くんじゃないかと思うほどやらされるんだよね。それから先輩とスパーリングするわけだけど、俺はプロレス学校でしっかりやってきたから、ある程度の自信はあったんだよ。でも、初めて宮戸さんとやったとき『うわ、強い!』って思って、その強さにある意味感動を覚えたよね。」
ーーやはりプロは違う、と。
「『プロレスラーってこんなに強いんだ』と思ったよ。そのあと安生さんとやったら、もっと強くてね。例の“ラッパ”食らって、もう苦しくてね。」
ーーラッパとは上から押さえ込まれて、腹の肉で息ができなくなるヤツですよね。
「ホントに安生さんは化け物みたいに強かった。そして一番驚かされたのが、やっぱり高田さんの強さだよ。もうハンパなくて強くて、『スパーリングで高田さんの押さえ込みから逃げられるようになろう』っていうのが、新弟子時代の大きな目標だったからね。」
ーーその高田さんの付き人になれたというのは、ある意味ラッキーですよね。
「光栄なことだよ。Uインターで一番強い人から得られるものっていうのは、たくさんあるからね。また当時の高田さんは社長でもあったから忙しくて、合同練習には来られないこともあったんだよね。そうすると夜練習したり、日曜日に練習したりするから、俺も合同練習以外に高田さん練習を一緒にやることになるんだよ。だから、当時は自分でも相当練習してたと思うよ。これもキーホルダーからつながってたのかな(笑)。」
ーー同期や後輩が次々と夜逃げしていくなか、金原さんは辞めようとは思わなかったんですか?
「辞めようとは思わなかったけど、とにかく寮生活がつらかった。」
ーー田村寮長の絶対王政下での生活が(笑)。
「ホントそうだよ。寮長は王様で、俺らは人間扱いされないような感じだったからね。もう『ぶっ殺してやる!』と思ったことが何度もあったけど、『それをやったら高田さんに迷惑がかかる』ってことで、思いとどまったくらいだから(笑)。」
ーー藤原組長も新日本の若手時代、『小鉄の野郎、ぶっ殺す!』って言いながら、包丁で合宿所裏の木を斬りつけていたらしいですからね(笑)。
「でも、あの厳しい道場と合宿所生活を耐えられたら、なんでもできるって思ったよね。」
ーー地獄の合宿所には、どのくらいいたんですか?
「1年半くらいいたかな。田村さんが寮を出て一人暮らしを始めて、垣原さんが寮長になって、ようやく人間らしい生活になったからね(笑)。」
ーーじゃあ当時は、試合がそういった鬱憤を月に一度すべてぶつけられる舞台だったわけですか。
「そうだね。だから試合が待ち遠しかったよ。あと選手になると試合の翌日から一週間休みになるんだよね。練習生の頃は日曜以外はずっと練習だったからさ、『早く選手になって一週間休みたいなあ』なんて思ってたよ。でも、デビューしてからは、若いから月に一度じゃ物足りなくて、『もっと試合がしたい!』って思ってたよ。」
ーーデビュー戦というのは、やはり思い出深いものでしたか?
「デビュー戦のこと話すと、また田村さんの話になっちゃうんだけどさあ(苦笑)。」
ーーまた田村さんですか(笑)。
「デビュー戦の3日前くらいに、田村さんから『スパーリングやろう』って言われたんだよ。でも、俺はデビュー戦を控えてるし、ケガしたくなかったからちょっと嫌な予感がしながらもやったんだよね。そしたら案の定、マットに足首を引っ掛けて、大ケガしちゃってさ。パンパンに腫れて歩けなくなっちゃったんだよ。」
ーーそうだったんですか!?
「もう『この野郎~~!』って思ったよね。でも、なんとか痛み止めを打って試合してさ。あまりにもケガが酷いから、デビュー戦なのに逆に緊張するの忘れてたくらいだったけど。」
ーーまさに怪我の功名で(笑)。
「でも、当時を思い出してたら、またムカついてきたよ(笑)。」
ーーまあまあ(笑)。そして晴れてプロレスラーになれたわけですね。
「選手になる前は、名前で呼んでもらえないんだよね。俺も『坊主』とか『ジャガイモ』とか呼ばれてさ。やっぱり当時は練習生で入っても、ほとんど逃げちゃうヤツばかりだったから、いちいち新弟子の名前なんて覚えてくれないんだよ。それがデビューしたら高田さんに『おまえのことも、これからは名前で呼ばないといけないな』って言ってもらえてね。宮戸さんをはじめとした先輩方も、選手になると接し方を変えてくれたんだよね。まあ、“アノ人”だけは選手になっても変わらなかったけど(苦笑)。」
ーーダハハハハ!
「あとはデビューしても、なかなか後輩が育たなかったから、雑用とかやることがずっと変わらなくて、それがキツかったよね。後輩として残ったのは髙山(善廣)くんぐらいだから、新人の頃はとにかく髙山くんといっぱい試合したよ。当時の髙山くんはデカくて、若いから体力もあるし、いま考えるとタフな試合してたと思うよ。練習もさんざんやったしさ。それがあるから、Uインター出身の選手はいまでも続けられてるんだと思う。」
ーー当時のUインターは結束力も強かったんですよね?
「結束力はあったね。毎日みんなでキツい練習してさ、試合が終わったあとはみんなで飲みに行って日頃のストレスを発散するんだよ。あの高田さんを中心とした宴会で、みんな団結してたんだと思うな。それがリングスに移籍したら、みんなで飲んだり、メシ食ったりっていうのがなかったからさ、やっぱり他の団体と比べても、そうとう結束力は高かったと思うよ。」
ーー高田さんの求心力もあったんでしょうね。
「俺ら選手にとって、高田さんへの思いっていうのはもの凄くあったよ。普段は口も利けない、雲の上の存在なんだけどさ、飲み会のときは一緒に肩組んでカラオケ歌ったりしてね。それがうれしくてね。そういうUインター全体の団結力を、また宮戸さんがまとめていたのも大きかったと思う。」
ーーでは、新日本プロレスとの対抗戦のときも、みんなで一致団結して立ち向かった感じですか?
「やっぱり一人一人、高田さんに呼ばれてさ『Uインターはいま会社が傾いている。新日本と対抗戦をやるしかないんだ。やってくれるか?』って言われたら、『はい』としか言えないよね。まあ、言わなかった人もいるんだけど(笑)。」
ーー新日本のレスラーと闘ってみた感想はどうですか?
「強いと思ったよ。当時、Uインターの選手って90kgそこそこの体格じゃない。それが新日本のレスラーはみんな100kg超えてるからさ。身体がデカくて頑丈で、『蹴っても蹴っても効かねえな』っていう部分で『プロレスラーはやっぱり凄い』と思ったよ。そして、この新日本との対抗戦が、のちにリングスでヘビー級の化け物と闘う際に役に立ったね。」
ーーただ、新日本の対抗戦をやっても経営は好転せずUインターは一度解散。キングダムになるわけですよね。
「経営はうまくいかなかったみたいだけど、道場の練習は凄く充実してたんだよ。昔のスパーリングって、先輩と後輩がペアを組んで、同じ相手と延々とやって、いっぱいやったから満足みたいな感じだったんだよ。」
ーーいわゆる“いじめスパー”というか。
「それがあの頃から、5分1ラウンドで交代してみんなでスパーリングするようになったんだよね。」
ーーいまの総合の練習と同じ形式ですね。
「そうなんだよ。いろんな選手とやるから対応力も付いてね。ちょうど、その頃からエンセン(井上)も練習に加わって、“柔術”というものが入ってきてね。あとはコーチとして安達さんが加わって、レスリングをしっかり習うことができた。そこからUインターのレベルが凄く上がっていったと思うんだよね。」
ーーじゃあ、世間的には『Uインターはダメだ』と思われてた頃、練習は一番充実していた、と。
「当時はまだ総合の闘い方が広まってない頃だからさ、世界的に観てもかなりレベルが高かったと思うよ。だってエンセンが初めて練習に来たときビックリしてたもんね。来る前は佐山さんに『プロレスの道場なんかに行っても練習にならないからやめとけ』って言われたらしいんだけど、一緒に練習したら『プロレスラー、強いよ』って言ってたからね。俺らにとってもエンセンから柔術の知識が学べたし、あの頃はみんなのレベルが急上昇していたと思う。だからキングダムの選手が、UFCに出られたらまたおもしろかったと思うんだけどね。」
ーー実際、キングダム末期に桜庭さんがUFCーJでマーカス・コナンを破って、世間を驚かせましたしね。
「おれも(ヴァリッジ・)イズマイウと闘えるはずだったんだけどな~。」
ーーなぜか、その試合は流れてしまって(笑)。
「実際、キングダムでいろんな外国人選手とシュートで闘って、負けなしだったからね。」
ーーその後、リングスでも13連勝っていう記録を残してますしね。
「キングダムではグローブ付けて試合をしてたのに、リングスでまた掌底に戻るっていうのがちょっとガックリ来たんだけど。リングスはガイジンがみんな怪獣みたいなヤツだったから、キツかったけとおもしろかったよね。みんな強いしさ。闘ってみて、昔リングスのガイジンを『どこの馬の骨かわからない』呼ばわりした宮戸さんは、謝らなきゃダメだなって思ったもん(笑)。」
ーーダハハハ! リングスはみんなヘビー級で、しっかりとしたバックボーンを持った選手ばかりでしたからね。金原さんが移籍して半年後にリングスはグローブを付けたKOKルールに変わりましたけど、あれは何かきっかけがあったんですか?
「オープントーナメント開催のためのルールだったんだけど、やっぱり時代の流れでグローブをつけなきゃいけない時期になってたんだよね。でも、あのKOKルールの試合っていうのは、展開が早くておもしろかったと思うよ。」
ーーそれにしてもKOKトーナメントは、第1回も第2回も凄いメンバーが揃ってましたよね。いま億万長者になってる選手が何人もいる。
「ダン・ヘンダーソンとかも頑張ってるもんね。ストライクフォースで、まさかヒョードルに勝つとは思わなかったなあ。」
ーーダンヘンは第1回大会で優勝して、当時としては破格の賞金20万ドルを獲得しましたけど、いまやヒョードル戦1試合で80万ドル稼いでますからね(笑)。
「凄いなあ~。第1回KOKで闘ったとき、ちゃんと反則のポイントが取られてたら、俺が勝ってたのに~。」
ーーあれが人生の分かれ目だったかもしれない(笑)。
「だいたいトーナメントって、枠順でずいぶん左右されるからね。俺なんて1回戦でジェレミー・ホーン、2回戦でダンヘンだからね。これはキツいでしょ!」
ーー金原さんがリングス10周年記念興行のメインで対戦した相手もいまや億万長者ですからね。
「マット・ヒューズだよね。彼もUFC殿堂入りでしょ? だから俺『金原さんって億万長者の器なのに、何をどう間違えたんですか?』って言われることがあるんだよね(苦笑)。いいプロデュースされてたら、億万長者になってたのにって。」
ーーそれに加えて、PRIDEでの対戦相手は、全員世界チャンピオンになった選手ですからね。ヴァンダレイ・シウバ、ミルコ・クロコップ、マウリシオ・ショーグン、そしてアリスター・オーフレイムという凄すぎるメンバー(笑)。
「ねえ! なんであんなのとやったんだろう?」
ーー『よくぞご無事で』って感じです(苦笑)。
「でも、PRIDEで連敗して、あのへんから自信がなくなってきたんだよね。PRIDE初参戦のシウバ戦直前にヒザの靭帯切っちゃって。手術して1年半もブランクが空いたりさ。辛い時期だったよ。いまのヒョードルもそういう状態だと思うんだけど、連敗すると『次も負けたらどうしよう』っていう気持ちが先立って、へんな話、勝ち方がわからなくなってくるんだよね。」
ーー袋小路に入ってしまうわけですね。
「いろんなことを考えすぎちゃうんだよね。それでパンクラスでも結果が出ないし、不景気でファイトマネーも落ちていくし、このままだと生活もできなくなるから、川村(亮)くんとやったあと、もう辞めようと思ったんだよ。でも、みんなが『もったいない』とか言ってくれるし、ラストマッチとして最後にもう1試合やろうと思ったんだけど、その試合も決まらないからさ、辞めるに辞められなくなって。『じゃあ、またやってみるか』ってダラダラ現役続行してたら20年経ったんだけどね(笑)。」
ーー20周年おめでとうございます(笑)。
「でも、DEEPに上がるようになってから、だんだん昔の感覚が戻ってきたんだよね。だから引退するまでに、なんとかDEEPのチャンピオンベルトを獲りたいっていうのがいまの目標だよ。」
ーーでも、いまの総合の現役選手でキャリア20年って、とんでもない大ベテランですよね。
「いつの間にかそうなってるんだよね。総合以外にもさ、今年は原点に還るってことでZERO1さんからのオファーを受けて、ひさしぶりにプロレスのリングに上がったんだけどさ、客席の雰囲気が凄くよかったんだよ。いまの総合の客層って、選手の友人知人がほとんどじゃん。でも、ZERO1はあたりまえだけど、みんなファンが観にきてるんだよね。そして俺もデビュー以来、ずっとファンの前で闘ってきたからさ、その感覚を思い出してね。『やっぱりプロレスは素晴らしいな』って再確認したんだよ。」
ーー気持ちのうえでも原点回帰したというか。
「うん。『俺の仕事は、闘ってファンをよろこばせることなんだ』っていうことを、あらためて思い起こさせてくれたんだよね。だから今回の20周年興行もファンによろこんでもらいたいっていう思いでマッチメイクしたからね。そして『UWF』っていうものが、俺たちと同世代のファンの人たちの憧れだったからさ。その頃の夢をもう一回見せたいなって。みんなアラフォーになったけど、11月16日だけは10代、20代に戻って、試合を楽しんでもらいたいよね。」
ーーわかりました。では『U―SPIRITS』、おおいに楽しみにしてます!